生命力を受けとめるのは、生命力。
こんにちは。
どうしても、気になることがあってパソコンに向かいました。
それは、子ども時代の実体験が今に生きるということがほんの少しだけ理解できたような気がしたから!
よく、「今の子どもは実体験が足りない」とか言いますよね。
きっと私も「実体験が足りない」に当てはまる時代だと思うんですが、私が子ども時代から約25年の現在、さらにさらに、実体験が足りない事態が発生している!?んですって。
最近、幼児〜高校生のお子さんに実際に会って絵を描いたりお話する機会が増えました。
そして思ったこと…「もっと、飛び込んで来いよ〜っ!!!」
ねえっ!
じゃじゃん!あらこわい?
この絵は、大学時代初期のドローイング授業で描いた自画像です。
厳しい先生に、最初で最後、褒められた作品です。
デッサン力ない、繊細さもない、だけど、パワーが、ある!エネルギーが、ある!
当時、不器用ながらに生き、傷つき、それでもご飯を食べ生きていた、私の魂が、ある!
あるあるあるあるっ!
私が幼児〜低学年の頃、それはそれは内気で、背の順は一番前、とりあえずすぐ泣く、泣く、の「チビで泣き虫でめんどくさい」子でした。
夏の夜、公園で花火をしていて、上級生が火遊びし始めて、火がこわくて1人で泣いて帰ることもありました。
3,4年生ごろからはだんだん自分に自信がついたし、友達にも恵まれて、たくさん遊びました。
夏は隠れ鬼で勝つために木登り練習、冬は柿泥棒とかやっていました。(時効ですか…?)
春はシロツメクサを大量に消費して輪っか作り、秋は落ち葉を結んで花束作り、なんて女の子らしいこともたくさんしましたけどね。
土曜日は半ドンで帰ってお昼を食べてから習字教室だったけど、古〜い公民館の押入れから飛び降りて頭打ったり、横に流れる荒久沢川を登って宝探し、川の秘密基地作りに時間を費やしていました。
先生、よく傍観してくれたね!ありがとうございます。
それでもとりあえず書道5段までいきました。
思い出される記憶ってそんなのばかりですねえ。
本当に楽しかった。
三種類の公園、校庭、家の庭、川、土手、畑に田んぼ。
同年代は、みんなそのくらいやったよね〜っていう人ばかりだと思うのですが、
現代の子は、そういう体験がだいぶ少ないようなのです。
まず一年生の時から毎日5時間で、帰宅は15時半頃。
宿題も毎日 、算数・漢字・音読(+自主学習)が出るので平日全く遊べない子も多いそうです。
学校からも、「帰ったらまず宿題」という指導がなぜか出ます。
さらに塾、という子も。
最近しきりに叫ばれていますね、この問題については…
それなのに、なくならないようです。
みんな言ってるのに、どうしてなのかな〜。
中学生の時は、中学がだいぶ荒れた時代の後だったためか、先生たちがかなり厳しく生徒を管理していました。
時には罵倒、軽い暴力をするなど、今思うと、悪く言えば脅して治めていた部分があるように見えました。
私は優等生だったので、先生に怒られるとまずい、怖いという思いばかりでした。
そしてたまたま勉強は好きだったので、いい成績をとるということにパワーを使っていました。
そのおかげで高校受験は推薦であ〜ら簡単、でしたね…笑
絵は描き続けていて、自分で作ったキャラクターや物語を文化祭で独自に展示をしたりしていて、好評でした。
絵の上手い友だちと競いながら本を作ったり、雑誌に投稿したりしていました。
高校生時代は、私が絵がメキメキと上達して、「いい調子だ〜!悩みがないことが悩みです!」っていう時です。
中学時代に上から横から抑え込まれてフツフツと眠っていたエネルギーが爆発したようでした。
おしゃれも楽しいし、恋も楽しい。
水彩でイラストを描いていたので、 音楽バンドをやっている年上の友達から、フライヤーを作ってと頼まれたりしていました。
当時イラスト部で部長もしていたし、写真部も掛け持ちしていたし、運命の恩師に出会って絵の教室に通っていたりしており、精力的に動き回っていました。
当時路上ライブをしている人がたくさんいて、彼らと仲間になってギターを奏でたりもしました。
こわいものなしです。
精神力、集中力、エネルギー、パワー、夢、色んなものがあふれていました。
デッサンの練習もしていたのですが、予備校ではなく自由なアトリエだったので、特に何か習ったわけじゃないです。
勝手に行って、勝手に仲間と語り合ったり描いたりしていると先生がコンビニの肉まん持って現れて囲碁を打つ、といった具合でした。
高3の夏休み、本領発揮、ひとりデッサンに打ち込み、描けるようになっていました。
大学に受かり、デザインの勉強を始めました。
ほんの1ヶ月くらいで描けるようになったのは、それまでスポンジをふわふわに吸収できるように自由にさせてくれた家族や友だちや先生のおかげです。
自由に自由に、描いて遊んで、集中力も精神力も最高潮に達してましたね。
長々と私の子ども時代を書きましたが、ここで本題です。
私が絵を描く、デッサンをする、デザインをする、何かを生み出す、という時はいつも、対象となるものの“生命力”を感じます。
というか、生命力を感じないと、描けないですよね。
デッサンでもイラストでもデザインでも、画面の向こうは空気があって細胞が生きてる。
だから画面の中の人は笑うし、瓶は重いし、石膏の砂の匂いまでする。
きっと上達するのに必要なのは、自分の生命力を高めること。
生命力を感じるには、自分の生命力が必要です。
生命力で生命力を受け止める。
パワーでパワーを受け止める。
エネルギーでエネルギーを受け止める。
細胞を細胞で受け止める。
そして最近気付いたこと。
画面の中に飛び込むには、実際のこの世界に飛び込んだ記憶が、直に肌に残っていないとできないのだと思います。
子ども時代、夏休みに、今まで登れなかった気に登れるようになったあの感覚です。
川に足を入れた時に想像よりも水圧が大きくて一瞬ドキッとしたけれど虚勢を張って進み続けたあの感覚。
盗んだ柿の甘さと渋さ、そしてスリル。
見慣れた土手の雑草の花が、よく見たらマイクロサイズで美しかった感動。
友だちと駆けずり回った高校時代。
何度となくかよったアトリエ近くの、広い広い利根川の、黒い黒い強さと音に飲み込まれそうになった孤独感。
その体験の一つ一つが、画面に挑んでいく勇気になっていました。
頭の中に作る世界の、温度、湿度、音、細胞。
画面に一筆目の鉛筆を入れる緊張感。
これだと決めた線にペンを進める勇気。
色。
画面に飛び込む。
そして、これって私の場合は絵やデザインだけど、全ての業種に言えることなのかも…?と思いました。
人間社会に飛び込んでいく感覚、仕事の信頼関係。
社会に飛び込んでいくことは、木登りと似ている気がします。
木登りは、心の体当たりです。
「ここに左足をかければいけるかも…?」
「友達にお尻だけ押してもらえたら登れるぞ!」
「昨日登れなかった木に登れた!」
「いつもは登れない木に今日なら登れる気がする」
「この木は登ったら私の体重で折れちゃうかな」
「この木は高すぎて今は登れない。やめておこう」
全ての感覚が、仕事や社会に対応している気がします。
現代を生きる若者や子どもたちに。
もっと飛び込んじゃおう!
ウェルカムだよ!バッチこいだよ!
受け止めるから!!
そう、今のうち。
今なら木から落ちてもカスリ傷で済むよ。
その体当たりが、いつか絶対に、君を救います。
私も生命力を蘇らせたいです…
でもあの頃って、生命力がありすぎて自分がこわい気もする。
今は今、ですかね。
実体験が今に生きる感覚が突然身にしみた、33歳の冬でした。
LEAVE A REPLY
コメントを投稿するにはログインしてください。