たましいのケーキ
ハロウィーンって、何?!?!?
っていう、人種なんです私。
大学時代、友人がよくハロウィーンパーティーを開いてくれて、参加させてもらったのは覚えています。
とてもとても楽しかったのは確かです。
頭になんかつけてゲームをしたり、かぼちゃのお料理を食べたり、お菓子を食べたり…(食べる専門)。
まあ、冷静に見解を述べてみると、クリスマスもハロウィーンも、経済中心社会にとって都合が良かった、てことなんだと思います。
前にEテレの番組で、昔の学者さんの考えについて紹介していたのを見たのですが、
(確か、レヴィ・ストロース「野生の思考」という本を読む、といった内容の番組で、本題は下記のことではないのですが、私はやけに腑に落ちた部分でした。)
「贈与」は野生の思考で、冬は贈与の季節である。「プレゼントすること=贈与」は「相手に借りを作る」ことであり、 相手にとって自分を優位な立場にするためものである。
この「自分の立場を良くする目的」と、「経済社会の消費増加という目的」がピタッと噛み合って、クリスマスなどの行事がこんなにも世界中に広がり続けている。…..
ということです。ふむふむ。
お金の影がチラチラチラ。
ハロウィーンについて一つ。
元はケルト民族の大晦日なんだよっていうのが一般的な解釈みたいですね。
アメリカでは、イギリスから逃げてきたケルト民族を排除しようという傾向があって、差別なわけですが、ケルトのお祭りをかき消す目的で収穫祭を作った…ということもあるみたいです。
先住民族って、どこへ行っても大変ですね…
ハロウィーンについて、こんな曲があります。
「A Soalin’ 」。ア・ソーリンと読みます。
この曲はハロウィーンな気分バッチリです。地味なのにものすごく「たまらん!!」てなります私は。
(余談ですが、演奏テクニックすごくないですか? 真ん中のポールさんは、スリーフィンガー奏者としても有名で、普通ギターを指で弾いいて演奏する時は親指と人差し指の2本使うのですが、中指も使ってます。だから凡人には不可能な音が奏でられるんですかねえ。はあ…感嘆。)
この歌はイギリスのトラディショナルを元にしている。”Soal”は多分”Soul”(古いイギリスの方言,”Spirit”)と同じ意味、The Souling(or Soaling)という歌はオール・ハローズ・イヴ(10月31日、古代のケルト人の大晦日)で子供達が家々を回って小銭や魂のケーキをもらい歩く時に歌われた。この伝統は紀元前までさかのぼると考えられている。
ケルト人はこのSoulCakeを死んだ人の魂にささげる儀式のために使う。
クリスマスに乾杯する習慣はこのSoulCakeの伝統と似ている。…..古代ヨーロッパのケルト人の収穫感謝祭がキリスト教に取り入れられたものとされている。
ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていた。これらから身を守る為に仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。…..古代ケルト民族は文字による記録を残さなかったのでなぞの多い民族である。鉄の製造技術を持っていたというがローマ人のように武力によりを他民族を征服するような行為はあまり聞かない。穏やかな民族だったのだろう。
それともう一つ興味深いのは彼等の宗教感が仏教に近いことで、特定の神への信仰はなく輪廻思想もあったという。
ハロウィーンとクリスマスは切り離せない行事のようです。
それはそれはもう、キリスト教はとにかくお金と人を集めたかったのです。
クリスマスとかハロウィーンとか楽しいお祭りをたくさん作って、キラキラ装飾して、素敵な歌を歌い、物をあげたりもらったり、楽しませたんですね。
そして結果、こんなに人がついてきているんですから、これもすごい能力だと思います。
それだけ人を魅了して、成功したわけです。
この日本でも、未だに加速していますしね。
私には、この「Soul cake」(魂のケーキ)が、なんだか「まんじゅう」を想起させます。
「まんじゅう」は「饅頭」、昔は本物の生贄の頭部を神(?)に捧げていたが、皮にお肉を包んだもので代用するようになった、らしいです。
昔からのこういった行事やお祭りを見ていると、地域や民族に限らず、神や霊に「命」や「魂」を捧げるという行為が共通しているように思います。
きらびやかで、お腹いっぱいで、物にあふれた行事、それはそれで楽しめばいいと私も思っています。
でも、その陰に隠れた、太古の人々が大切にしてきた生きる心とか、恐怖心と戦っていた切実な思いとか、そういうのもほんの少し感じていたいなぁと思っています。
太古の昔、明日も太陽が昇ると確信する材料はなかった。
明日も、魚や農作物がとれるとは限らない。
言葉も顔も違う知らない民族が武器を持って襲ってくるかもしれない。
顔も知らない王様が、何を言い出すかわかもらない。
だから神様、仏様、ご先祖様、大自然様、私たち家族を守ってください。
現代のように安心する間は、信じられないくらいなかったことでしょう。
でも、みんなで揃って祈っているあいだは、希望をもっていられたのかもしれません。
だからそれを祈るためには、魂さえも、命さえも、捧げていたのかもしれません。
日本の行事も、外国の行事も、もともとは今の私たちと同じように「家族と幸せに暮らしていたいよ〜」という想いが切実に形になったものなのだと思います。
祈った人の心、魂、命を感じながら過ごしたいなあ。
そして少なからず「お金」へと走っていく行事たちは、これからどこへと向かうのでしょうか…..
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